今年 2月 シンガポールの戦史を振り返る時期に記事にしました、パシパンジャンの戦いについて。
1942年2月15日 シンガポール陥落直前の最後まで、日本軍と連合軍のマレー部隊が激しく戦った場所がパシパンジャン。パシパンジャンの戦いの中でも 1942年2月13日、14日のブキチャンドゥでの最後の戦いで勇敢に戦ったマレー兵士の記録を残すために建てられた戦史展示館 Reflections at Bukit Chandu が9月初旬に再オープンしました。
最寄り駅はサークルライン パシパンジャン駅。駅から丘の方へ向かって緩やかな山道を上がっていきます。駅からそんなに距離はないのですが、途中から急な坂道になるのでゆっくり歩いて 20分ぐらい。タクシーに乗ってしまうのも良いですが、散歩がてらのんびりと歩いて行くのが気持ちいいです。
静かな山道を上がっていきます。
熱帯雨林の緑に癒されます。
山道を上がっていくと小さな丘の上に建つバンガロー。この辺りは Bukit Chandu – Opium Hill アヘンの丘で、植民地時代、戦前はアヘン工場があり、バンガローはアヘン工場の責任者の自宅でした。
バンガローの前にあるマレー兵士像。
改修前
改修後
像は改修前と同じものですが、バンガロー前の中央に移動し、色とりどりのお花に囲まれ、この地で勇敢に戦った兵士を称える意味がこめられているのを感じました。
また改装前、アヘン工場に関する展示はありませんでしたが、今回の再オープンで、ブキチャンドゥの戦いに関する展示と、アヘン生産に関する展示が新たに加わりました。
* 2月の記事と内容繰り返しになりますが、再度記しておきます。
1942年2月13日。パシパンジャン村に配備していたマレー連隊を率いるアドゥナン中尉とその部隊 42人の兵士は更に攻めてくる日本軍の進撃を阻止しましたが、その日の真夜中、ブキチャンドゥ丘の頂上へ後退するように上官に命ぜられました。そして攻撃から守ることができるよう、丘の周りに土嚢を積んで壁を作りました。
2月14日午後。日本軍兵士はターバンを着用してインド人兵士に見せかけてブキチャンドゥへ現れましたが、アドゥナン中尉は日本軍だと察知し、そこで両軍の激しい銃撃戦になります。マレー連隊の兵士たちは逃げずに撃ち続けました。銃が熱くなり過ぎて持っていられなくなるぐらいに銃撃し続けました。そして銃弾がなくなった後は銃剣と素手で日本軍に突撃して戦い続けました。
アドゥナン中尉も日本軍に激しく抵抗しましたが、かろうじて生きているぐらい受けた傷が致命的となり、もう戦えなくなると、日本軍の兵士は軍服を脱いで降伏するように求めました。兵士にとってそんな屈辱的な行為は受け入れられるはずがなく降伏を拒否すると、日本軍兵士は激怒して、アドゥナン中尉を引きずって足を結んで逆さまに木に吊るし、銃で撃ち、体をめった刺しにして、最後には火をつけて燃やしてしまいます。
シンガポールで戦って亡くなった兵士は、クランジ戦没者墓地に埋葬されていますが、アドゥナン中尉の遺体とお墓はなく、戦没者の名前がいっぱいに刻まれたクランジの丘の壁に名前だけが残っています。
アドゥナン中尉のブロンズ像
展示は改修以前よりもぐっとシンプルになり、展示内容としてはちょっと物足りなさも感じる面もありましたが、日本軍がいかに酷かったかを伝えるものではなく、ブキチャンドゥで戦ったマレー人部隊、マレー人兵士の方々を称え、歴史を後世に残し、伝え続ける意味が強いと感じました。
熱帯らしい緑に囲まれたバンガローの展示館。戦場だったとは思えないような静かで緑が綺麗な場所ですが、ここで起きた戦争の出来事に想いを馳せつつ、今ある平和のありがたさを感じる場所です。一度足を運んでみて下さい。
Reflections at Bukit Chandu
31-K Pepys Rd, Singapore 118458
https://www.nhb.gov.sg/bukitchandu/
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